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戦後70年・博多港引揚記念碑
戦後70年を迎える今年
新春早々に、想いを胸に博多港を散策しました。
綺麗に整備された港に 『引揚記念碑』 が赤い帆を揚げて建っていました。
引揚者139万人の中の一人として、私も昭和21年11月に此の港に帰ってきました。
博多港は、昭和20年(1945年)の終戦直後、引揚援護港としての指定を受け、
約1年5ヶ月にわたり中国東北部や朝鮮半島などから、一般邦人・旧軍人など
139万人の人々が博多港に引き揚げてきました。
 「博多港引揚記念碑」は、博多港が引揚の港として果たした役割を忘れることなく、
戦争の悲惨な体験を二度と繰り返さないよう次の世代の人々に語り継ぐため、
永久の平和を願って建設されたそうです。







                記憶にない引揚げ
                        
 先の大戦で多くの人々が、満州から、苦労して引き揚げてきた。この拠点となったのが葫蘆島である。
百五万人が、此処から船に乗って日本へ引揚げたと言われている。昨年の十二月NHK・TV放送「引き揚げはこうして実現した」の中で詳しく紹介された。
今、この地には『1050000日本人俘虜遺返之地』の石碑がたっているという。

 私も満州からの引揚者の一人である。と言っても、昭和十九年生れの私は何も覚えていない。
一緒に引き揚げてきたと言うより、連れて帰ってくれたのである。私を連れて帰ってくれたのは、
母であり、祖母であり、中学生の叔父や二人の小学生の叔母達であった。
万一(いや百に一つかも・・・)途中で置き去りにされていたら、私は正に、中国残留孤児であった。
或いは、北朝鮮のどこかで、野たれ死にしていたことであろう。感謝・感謝である。

 私は、ハルピンから東へ四百キロほどの東安(現在の密山)の満鉄病院で生れた。
父は軍人で、満州北部を中心に綏芬河、牡丹江、東安、ハルピンなどの各地を転戦したようだ。
私と母はソ連侵攻の直前に、父の指示で母の実家・安東(現在の丹東)へ疎開をしていた。
最悪の逃避行という経験をせずに済んだのが、幸いではあった。

 安東は鴨緑江河口の港町で、川の対岸は北朝鮮の新義州である。
母の父は、終戦当時、町の世話役をしていたという。
終戦後まもなく、祖父は集会に出たまま帰ってこなかった。
家族で探したが一向に判らず、半年余り過ぎて新義州で亡くなった、と
遺品だけが数点帰ってきたと聞く。

 その頃、父は北満で捕虜となり各地へ移動後、最終的にはシベリアへ抑留されていた。
この間に母は、妹・順子を出産したが、食糧事情も悪く、妹は二ヵ月も持たずに、この世を去った。
母も産後の栄養補給がままならずに病弱になった。
女子供だけになった家族は、日本への帰国を真剣に考え始めた。

 昭和二十一年十月の初め、女子供だけの大家族は葫蘆島からの帰国を断念し、
数家族で一隻のジャンクを雇い、夜密かに安東から南鮮を目指して船出した。
水行二日、取締りが厳しくなり、目的地とはほど遠い北鮮に降ろされた。
そこから米軍が統治する南鮮までの二週間ほどが大変であったと聞く。
 私は安全なところは手を引かれて歩き、そうでないところや夜は(大半がそうであったが)病弱な母ではなく、叔父や叔母の背にオンブされて南下した。後になって、叔父叔母から「あの時は重かった」「背中にオシッコかけられた」と苦労話をよく聞かされた。
 ジャンクから降りる時に持ち物を制限されて少なくなった品物を、順次食べ物に換えて飢えを防ぎながら、ようやく米軍統治地にたどり着いた。此処からは米軍誘導のもとに南下、釜山から船に乗って博多港へ向かった。

 この間の母の容態は、産後の回復が不十分なうちに過酷な行軍を強いられたこともあって、
次第に悪化していった。船に乗って益々衰弱が進んだ。
私も引揚げ船の中で高熱を出し、その後左手指先が不自由になった。

 昭和二十一年十一月八日、家族は、待ちに待った日本の国・博多港に上陸した。
陸に上がると直ちに、母は祖母と二人で国立筑紫病院へ直行した。
数時間後、母は、この世を去った。

後になって祖母は、私に教えてくれた。
母が「***を連れて、今帰りました」と、誰かに報告しているかの如く、
何度も何度も、つぶやきながら息を引き取ったことを。

同日の午後、私たちは父の実家にたどり着いた。
父の実家は、糸島郡の農家であった。帰り着いた時に居た祖母は、突然のことにびっくりして喜んでくれた。そしてその後
「朝の間、火の気のない竃に、火がサーッと横に走った。何かあったのじゃ…と思った」 と言ったそうだ。
母の思いが、先に実家の祖母の元に届いたのであろう、と皆不思議がったという。
当時の父の実家は、祖父母、叔父夫婦、私と同じ歳の従姉妹の五人家族であった。

母方の家族は、二日ほど滞在し、小学校六年生の叔母一人を残して、郷里の日南飫肥に帰っていった。叔母は、私が父の実家家族に懐くまでの一ヵ月ほど、残ってくれたのである。

この間の苦労について、私は全くと言ってよいほど覚えていない。
生後二歳半の出来事である。
私は、父がシベリア抑留から昭和二十五年に帰ってくるまでの間、新たな家族に可愛がられ、
特に祖母の後に付きまといながら、何不自由なく、育っていった。

 人の一生には、人生を左右する大きな出来事が幾度か訪れるといわれている。
私の最初の大きな転機は、このときであろう。

私を命がけで連れ帰ってきてくれた母。きつい思いを我慢してオンブしてくれた祖母、叔父、叔母。
この母方の家族に守られた私の命は、帰国して、父方の家族に引き継がれていくのである。

この両方の家族が、もし私を見放していたならば、私はこの世に存在しない。

支えていただいた命を大切に、感謝を忘れずに、長生きしたいものである。        

(二〇〇九年二月作)
by mi7t | 2015-01-25 09:29 | エッセイ/想い TOPに戻る


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